根本寺

塚原山根本寺縁起



三大誓願  種々御振舞御書

     文永八年十月十日に依智を立て同十月二十八日佐渡國へ著ぬ十一月一日に六郎左ェ門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のように死人を捨る所に一間四面なる堂の佛をなし、上は板間あわず四壁はあばらにして雪ふりつもりて消える事なし、かかる所に所持し奉る釋迦佛をたてまいらせ敷物なければ、敷皮打ちしき蓑うち着て夜をあかし日をくらす。夜は雪雹ひまなし、昼は日の光もささせ給わず心細かるべき住居なり。

 

  謫居の地 塚原

    当山は山号を塚原山といい、昔、佐渡の国仲地区一円の死人の捨て場所として、古墳累々たる塚原なりと云い伝えられています。全国の日蓮宗十大聖跡の一に列せられています。
     今を遡る七百有余年前、日蓮聖人御年五十歳佐渡法難の砌、文永八年(1271)十一月一日より翌九年四月半に至る迄、秘かに阿仏房夫妻の御供養を受け、辺り一帯は屍陀林にして鬼火明滅し、身の丈ほどに積る雪中の三昧堂に謫居された聖跡であり、日蓮聖人は此処に総ゆる艱難を克服し、正月十六日には越後、越中、出羽、奥州、信濃の諸国より集まった他宗の法師等数百人と問答し、「利剣を以て瓜を切り、大風の草を靡かすが如し」と御述懐遊ばされし程の大勝利を占められた。又二月半には六十一年の御生涯中の形見とも言われ、また、一大事とも言うべき『開目鈔』上下二巻を御著作なされ、本佛釋尊の予言になる「末法の大導師本化上行菩薩とはこの日蓮なり」と、御自身の本地を開顕されたのも塚原三
    昧堂であります。

    我れ日本の柱とならん
    我れ日本の眼目とならん
    我れ日本の大船とならん


    この「開目鈔」に認められた三大誓願であり、当山の別名を「開迹顕本の霊場」とも言われています。
     当山の境内地は約一万七千坪で、本堂、祖師堂、三昧堂、千仏堂、妙見堂、七面堂、二王門、二天門、太鼓堂、鐘堂、宝蔵、経蔵、戒壇塚、庫裡、等凡そ二十九棟が鬱蒼とした杉や松に囲まれ、佐渡が島の中で聖人謫居を偲ぶ聖蹟として多勢の参拝をいただいています。





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